ストア派について

エピクテトスとは誰?奴隷から世界で求められる哲学者へ

代表的な3人の後期ストア派哲学者、マルクス・アウレリウスセネカ、エピクテトスのうち、今回は、奴隷から大きな影響力を持つ哲学者へとなったエピクテトスについてご紹介します。

奴隷から哲学者へ〜 逆境を超える

名前がない

ストア哲学が興味深い理由の一つは、最も有名な実践者たちが、社会における立場という点で非常に幅広い範囲に及んでいたことです。ローマ帝国の皇帝マルクス・アウレリウス、皇帝の顧問であり資産家、劇作家として名高いセネカ、そして、奴隷として生まれたエピクテトス。このように、ストア哲学は私たちの立場や人生に関わらず、時代を超えた原則を提供してくれるのです。

エピクテトスは約2000年前、ヒエラポリス(現在のトルコのパムッカレ)で裕福な家庭の奴隷として生まれました。

エピクテトスの本名は不明です。「エピクテトス」とはギリシャ語で「獲得された者」という意味です。

生涯足が不自由だった理由

記録によると、エピクテトスの主人は暴力的で堕落しており、ある時エピクテトスの足を力一杯ねじったそうです。理由は分かりません。 わかっているのは、エピクテトスが冷静に「やり過ぎないように」と警告したことだけです。足が折れた時、エピクテトスは声も上げず、涙も流しませんでした。彼は微笑んで主人を見て、「警告しましたよね?」と言ったそうです。

この出来事の後、エピクテトスは足を引きずって歩くことになりましたが、彼の精神は折れませんでした。「足の不自由は足の障害だが、意志の障害ではない」と彼は後に語っています。エピクテトスは自分の障害を単なる身体的なものと捉えることを選びました。この選択の考え方こそが、彼の哲学的信念の核心となります。

哲学の道を歩み始める

彼の所有者であるエパフロディトスは、エピクテトスに自由学問を続ける許可を与えました。この機会を生かし、エピクテトスはストア派の哲学者ムソニウス・ルフスに師事し、哲学の道を歩み始めました。

奴隷は30歳になるまで解放されないと定められていました。皇帝ネロの死後まもなく自由を獲得したエピクテトスはローマで約25年間哲学を教え、多くの弟子を育てました。しかし、皇帝ドミティアヌスによって、キリスト教迫害とともにローマの哲学者たちも追放されたため、エピクテトスはギリシャのニコポリスに逃れ、そこで哲学学校を設立して死ぬまで教え続けました。136年頃に80歳あまりで亡くなったとされています。

ストア派哲学のマスターとして

エピクテトスの影響力は、彼の死後も続きます。

中でもローマの奴隷出身のエピクテトスが、世界最高の権力を持つ ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウスに与えた影響は大きなものでした。マルクス・アウレリウスは『自省録』の中で、エピクテトスを紹介してくれた師ユニウス・ルスティクスに感謝しています。ルスティクスが実際にエピクテトスの講義に出席し、自分のメモをマルクスに渡した可能性もありますが、最も可能性が高いのは、マルクスがエピクテトスの弟子であるアリアノスの広く流布されたメモ(「要録」)を読んだことです。

また、エピクテトスの影響は、幸運によってもたらされたものといえます。彼自身は何も書き留めず、 書物を残さなかったため、教えは弟子アリアノスを通じて記録されました。

そのエピクテトスの教えは、以後2千年にわたって人びとを導いています。

普通われわれは富や健康を願い、病気や死を忌避するが、エピクテトスによれば、前者があることで人が善くある、つまり幸福であるわけではないし、また後者があるから人が悪くある、つまり不幸であるわけでもない。むしろ、それらは善悪の中間にあるものであって、それらをどのように扱うかによって善と悪が、幸福と不幸が決定されるというわけである。その意味ではそれらは幸不幸となるための材料でしかない。ー『エピクテトス 人生談義 下 』國方栄二 訳〜解説より(岩波書店)

エピクテトス 人生談義(上・下)

 

エピクテトス 人生談義 上・下
(岩波文庫)

エピクテトスの教えは、彼の弟子アリアノスによって記録され、現代に伝わっています。アリアノスは師の言葉を忠実に書き留め、後に政治顧問や軍司令官として成功しました。マルクス・アウレリウス『自省録』の中でエピクテトスの教えに言及しており、その影響力の大きさがうかがえます。これらの書物は、ストア哲学の核心を伝え、現代人にも実践的な知恵を提供しています。日常生活での困難に対処する方法や、より良い人生を送るための指針を学ぶことができます。

下巻に収録されている「要録」には、ストア派の短い格言や原則が詰まっており、最初にエピクテトスを知るために適しています。

参考文献